以前の記事 課題 にて、3つ挙げていた内のひとつについて。
「仲が良い」とは一見喜ばしいことであるが、では何が問題なのか、それについて私見を述べる。
ちなみに、似たような問題は僕の代でも起こっていたし、どの代も大小の差はあれ抱えていた課題のひとつかとは思う。
1.仲が良い=何でも言い合える
まずはこの意味を履き違えている場合がある。
何でも=下らない話でも、というパターン。
ストレス解消には多少の効果があるのだろうが、チームとしての建設的な、しかし苦痛を伴うような話には適応されないということ。
下らない話、に近いものを感じるものが最近ある。
しかし、その半分以上が意味不明なハンドルネームの、意味不明なコメントである。
ここ1,2年だろうか、北大柔道部ログの記事に増加してきたこれらを、以後ガヤとでも言おう。
率直に言って気持ち悪い。
「私はふざけた名前の人間なのだから、面白可笑しい表現をしていいだろう」なんて都合の良い甘えが出てきそうで、読むたびに不快感が生じる。
高2の冬、実家の椅子で寛いでいた折に何かが飛んできて、視線を落とせばゴキブリが胸元にいた時の、あの気持ちに近い。
無論、「そんなガヤもあってこそ」という方もいるかもしれないが、僕としてはチームに必要なのは責任ある当事者であり、ガヤは要らない。
2.仲が良い=良くない人とは関わらない
これは分かり易いだろう。
チームが複数の小集団に分割され、しかもそれらの流動性が著しく低いパターンである。
ある情報について、話し易い人と共有するのではなく、必要とする人に伝える、この基本作業に対しての精神的障害が大きく、つい億劫になってしまう。
こうなると情報伝達、意志疎通が滞り、いつまで経っても一体感は生じ得ない。
コロナ禍の今は、特にこのあたりが心配である。
3.仲が良い=内面まで分かる
分からなくてもよろしい。
まず必要なのは事実の積み重ねである。
例えば、練習に身が入らないAがいたとして、それに対するBの思考。
①「そういえば最近思い悩んでいるらしいな」
②「あいつの学業は○○で、部外の交友関係は□□で、生い立ちは△△」
③「なら××について助けてあげればいいかも!」 → 行動へ。
この場合、行動として表に出るのは「なあA、××について悩んでるんだったら、力になるよ」ってな具合だろうか。
多分この似非思い遣りが間違いで、本当は初手に「おいAちゃんと練習やれ」となるべきかと思う。
何故なら「練習をしないこと」、これがAとBが属するチームから見た、Aの問題点であるから。
勿論、チームの話から進んA個人の事情に踏み込むのは、運命共同体感を醸すのには効果があるだろう。
しかし目標地点の設定を間違えると、チームにおける問題点を追求できず、ただ「いやーAのために良いことしたなー」というBの自己満足で終わってしまうかもしれない。
A本人にしても、「練習をしないこと」に焦点が当たらないことで、「真剣にやらなくても、何かしら理由があれば許される」という勘違いを招きかねない。
以上、「仲が良い」ことの弊害について、思いついたことを連ねてみた。
全部ひっくるめて表現するなら、「仲間はお友達とは違いますよ」、以上。
課題はもう2つ挙げていたので、それらについてもそのうち記事にしよう、、、。
おわり。
0 件のコメント:
コメントを投稿