2020年4月19日日曜日

闘うということ

連日終わりの見えない日々が続く。
現役部員は終わりがあるからこその人々であった。
だからこそ、時間を圧縮した世界線で身を削っているのだと思う。
花火のようなものだ。
みんな何とはなしに好きだろう、そんな類のもの。
「自分が花火になりたいとは思わんけど」が多数なところもおおよそ一致する。

まあ、七帝柔道部関係者は世の中でも少数派競技である柔道の、そのまた少数派である。
つまりは大多数あってこそ、な面もあるので、そうである方々、それを担う方々には敬意があっていいはずなのだろう、とは近頃になってようやく思い至った。
どこもかしこも、誰も彼もが流れに翻弄されててんてこ舞いな状況である。
僕の勤める会社でも、業務量や内容なんかの見直しが検討され、調整段階らしい。
メディアやらSNSの大多数はこれを「闘い」と表現している。
まるでどこぞの労働組合みたい。
すると僕なんかはどうも思うわけだ「それほんとに、勝つ気なの?」と。
「闘う」ことには相手を「打ち負かす、滅ぼす」ことが目標の一つになるわけだけど、まじかよおいおい、という感じ。

違うだろう。
僕らに必要な心構えは、いただくこと。
もしくは受け容れるということ。
僕らの手には余るものばかりの中に、僕らは今存在している。
生きているのか活かされているのかは知らんが、兎に角、僕らが存在していることは確からしい。
ちらっと見上げた今日の空の色や、そこらに吹く風の匂い、喜怒哀楽に関わらず喚きだす腹の虫、自分を含めた誰もが、やがていなくなること。
支配しようと思うのは傲慢だ、それを理解して尚自らの下に置きたいと思うのなら、「闘う」と声を発すればいい。
程度問題だ。
僕はそこまで勝ち気にはなれない。
分配基準の問題だ。
なら、僕は僕のできそうなことに力を注ぎたい。

何をするのかの問題。
方針は6年前に決めた通り。
僕はあの時の僕を裏切りたくない、ってこと。
いま?裏切ってはいないはずだけど、叱られはすると思う。


おわり。

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