2019年6月30日日曜日

あの 20190628

この日もおおよそ人を絞って練習に参加した。
お蔭で、確実に進化してくれた、その源は彼らの内に、自ずから生じたものだと思っている。
彼らの成長に関われたこと、それを直に身に受けさせてもらったことに感謝したい。
七帝までに練習に参加できるのは後1回、多くて2回だろう。
さてどこまでいけるか、僕も彼らも。


手の届かなかったもの、手が届かなくなってしまったもの、通り過ぎて行ったもの、今はもうないもの、モノ、ヒト、コト、思いとか。
「あの」にはそんな意味が内包されている。
そういう使い方をされている。

移ろわざるを得ないものを、「あの」で写真みたいに切り取って、すると自分は移れなくなってしまう。
「あの」も写真も苦手だ。
けど何かを伝えるのには便利で仕様が無いから、楽がしたくて使うことも多くなった。
数年前ほど忌避はしていない。


1週間後の夕方ころにはきっと、今年の七帝も終わる。
永らく忘れられない「あの」時が、今年も形成されるのだろうと思う。
今から何をしても手遅れだろう、付け焼刃だろう、でも、やらざるを得ないことも多くあるのは事実。
やってもやらなくても、若しくはやれずとも、今も、それより前のことまでも、後悔することになるだろう。
分けても分けられても、勝っても負けても、望み叶っても徒と散っても。

全部が終わった後、抜け殻に成り切らないために今がある。
今できることは1つでも2つでも、結果を腑に落とすには多くて困ることもない。
やれることを、制限時間内で最も効果的と、自分が思うことをやる。
考える、とか計算する、ではなく、思う。
事ここに至れば、もう余裕は無いし立ち止まれない。
君を前進させるのは 足よりも意志だろう、ってのは僕の好きなフレーズの1つ。
今まで北大柔道部に関わってきた中で、考えて計算して結果を出せる奴は、各代に1人いるかどうか。
我々は頭が良くない、思考する余裕も無い。
でも意志決定だけは出来る、というか自分自身でしかできない。
肚括るしかない、出来なけりゃ僕みたいに、ひたすら自己嫌悪と自己承認の下らんループに巻き込まれるだけだ。
悪いとも思わんし得るものが無いわけでもないが、他人様にお勧めできるもんでもない。


おわり。

2019年6月26日水曜日

ストレス過多 20190625

取れそうで、でも結局取れなさそうな人に絞って指導してみた。
技を受けていて思うのは、圧が抜けてしまうということ。
つまりはムラッ気があるということ。

七帝本番を想定、状況はこちらのチャンス場面。
「うぉぉぉぉー、返すぞぉぉ」で力の入れ具合100%。
「ァァッアーぁぁぁあぁあぁ」で返せなくてもう0%。
暫く息を落ち着かせて再度「うぉぉー」で100%、と意気込むも実際は90%。
以下繰り返しで力はどんどん落ちていく。
失敗続きで精神も削られる。

一方分け役の方は、体力は削られるも、成功体験の積み重ねで精神は逆に研がれていく。
相手チームも、小さな山場を繰り返してどんどん盛り上がっていく。
そのまま「それまで」で雰囲気は完全に相手に。

抜き役が抜けない、ってのはそういうこと、だから抜き役の1人目分け=チームの1失点になる。
雰囲気分を加算すれば1.5失点以上だろうか。


分け役を一安心させてはいけない。
常に怯えさせる。
「今回は凌げた、でも次はどうか、その次は残り時間で後何回あるのか」って。
或いは「状況を打開できない、耐えるしかないが、このペースで進行されても保つのか」とか。
常に怯えさせる=100%の力を入れ続ける、ではない。
そもそも「自分が力を入れる」、という発想が間違い。
「相手に力がかかっている」のが条件。
自分が力を入れて、相手に力がかかっているのは及第点。
自分は力を抜いて、相手には力がかかっているのが最上。
落第点は勿論、自分が力を入れて、相手には力がかかっていない。
相手の動きやらなんやらで、自分の力が反らされたときに、如何に相手に力を伝えたままにするか、または減衰率を低く抑えるか、が重要。


生身の人間は、ゲームのキャラクターとは違う。
瀕死状態ではまともな思考も動きもできない。
「もう指一本動かせない」の100歩手前ですら、動く気力を無くすのが僕らだ。
だからこそ、練習は本番以上の量をこなさねばならない。
質においても本番以上であったなら、もう何も言うことは無い。
まあ質については、自他で低い方に合されるんだけど。
相手がいないと成り立たない競技である以上、仕方がない。
指導者の本当の仕事はそんな、全体の質の底上げなのだろうけど、果たしてそれがどれくらいできたか。

振り返らずとも近いうちに結果は出るのだが、果たしてそれは幸か不幸か。


おわり。

2019年6月25日火曜日

出陣式@札幌 20190622

朝から結構な雨で、札幌にしては珍しい天気だった。
爽やかな夏模様が売りのはずなのに、まあたまにはこういう日もあるか。
上着を羽織り街中に出て、道場へ向かった。

札幌駅あたりでは服飾店にSALEの文字が乱立。
値引きされた夏物衣料を買い込むのに大勢の人。
でも5,6人に1人くらいはJSBを背負って、或いは胸に掲げて闊歩していた。
どうやら三代目何チャラが札幌ドームでライブだったらしい。
経済効果いくらくらい行くんだろ。
ライブ時のキャパは50,000人くらいらしい。
ファンっぽい人の半分くらいはキャリーバッグ引いていたから、、、。
チケット、グッズ、交通費、宿泊費、飲食費、エトセトラ。
うーん結構な額だ。
我らが七帝戦だとその1/100にも届くのかどうか。
ああ、でも1人当たりの使う金額は大きい気もするし、行けるかもしれん。
学生が100~150人くらいで、OBOGその他関係者がいて、、、行けそうな気がする。


練習は、七帝合宿の仕上げとしての試合形式。
現役だけでなく、我々も試合慣れを、審判側も練習だ、ということで、三審制でやらせてもらった。
結果は、まあ日々の疲れからだろう、抜き役陣がいつもより振るわなかった。
まあこれはこれで、分役陣の経験値になってよかったと思う。
自分1人で分けられなくても次の奴が分けてくれる、ってのが実感できた部分もあったと思う。
そう思えば、なるだけ相手を疲れさせる動きとか、最後までやり切るってのが必須事項なんだ、ってのが自然と思い浮かぶだろう。
必要は発明の母、ってやつ。


出陣式はすすきの、ジンギスカン、というか焼肉。
店の都合上、自己紹介以外は出来ず、都ぞ弥生も無しだった。
時間にもシビアで、おのれJSBの影響か、、、と思ったが、その時間はまだライブやってるはずだったらしい。
全然違ったわ、逆恨みして申し訳ない。


そのあとは2次会、の後にとんでんへ。
僕は仕事の都合もあってすぐに帰宅したけど、あの後どうなったんだろうか。


おわり。

2019年6月19日水曜日

札束は他人を変えられるか 20190618

七帝合宿2日目。
体調不良者はおらず一安心した。
と言うのも、現役部員はたいそう病弱なイメージがあるから。
ここ2ヶ月の出欠表を見ると、3/4くらいの部員が、2週に1回は休みの印がついていた。
休みと言っても、講義やら何やらで出られないこともあるのだろうが、それにしても不安になる。

まあ病弱なのは生まれつきのものもあるのだろうから、それならそれなりの備えをすればいい話。

人間を生きてるだけで、余計なもんが山ほどぶら下がって窮屈になりがちだ。
他人との関わりなんて、山芋とろろと搗き立ての餅をブチ当てられ続けているようなもんだと思う。
ネットをどれだけ漁ってみても、自分自身の生き方は教えてくれない。
脇道への逸れ方と踏み外し方、諦め方や終わらせ方ならいくらでも載ってるし、背中を推してくれる人も多いんだが。


いつも通り脱線したのでそろそろ戻そう。
現役諸君にとって良いことは、今時期はもう悩むことは無い、と言うこと。
大きな路線変更は無いし、必殺技も思いつかない。
どれだけ魂を費やしたところで、筋力も技量も体力も大して上がりはしない。
ダクソで言うところのSL固定縛りである。
今の能力値でエンディングへの最適ルートを作り、それを走るだけ。
走り方については、ほぼ何でもアリ、だけどオンスモ(結構ツラいとこ)からは逃れられない、というのもミソ。

もう少しの間だ、多少の人間性なんて、捧げてしまってもいいんじゃないだろうか。
人間性があっても大して役に立ってない輩が殆どだろう、何故なら我々は頭がよくない。
その知力の低さで、人間性の恩恵を受けられないのなら、活かせないのなら、意味は薄くなってしまう。
つまり他のことに費やした方がマシ。

しかし僕みたいなイチ社会人になってしまえば、人間関係万歳社会からはもう逃れられない、損も多いけど、徳も無いわけではないから、イマイチ抜け出す気概が湧かない。
「切羽詰ったら捨ててもいいけど」くらいには思えてるところが、僕もまだまだ捨てたもんじゃないなぁ、と思って自分を守っている。


おわり。

2019年6月18日火曜日

ラスト3週間 20190617

七帝合宿初日。
滅茶苦茶寒かった。
最高気温が20度を余裕で下回っていた。
道場での寝泊まりには、防寒具も必要なのかもしれない。
6月も後半だというのに、福岡との気温差は大丈夫かと心配になる。

あと確か、この日は練習が終わったのが20:40頃だった。
そこから2時間足らずで晩飯と入浴を済ませて道場で就寝ということだったのだが、果たして間に合ったのだろうか。
2年目の千葉は基立の疲れからか、結構長いこと部室に篭ってたけど。

疲れと言えば、今日は悪いことをした。
見知らぬ顔の男性がいたので、とりあえず1本お願いしたところ、疲労困憊にさせてしまった。
話を聞くと、再受験で歯学部を目指す23歳とのこと。
運動自体3年ぶりと言っており、そうかそれは仕方ないなあ、と思った。
10日ぶりとかでも結構なツラさになるのに、その100倍くらいのブランクなら、どんだけツラいんだろうか。
まあでもまた来てくれれば嬉しい。
来なかったら僕のせいか、いや申し訳ないなそれは。
嘘でもついて無理矢理気味にでも引っ張ってくる方が良いのだろうか、、、。


嘘について最近思うことがある。
三流の商人は嘘が分からない。
二流は相手に嘘をつく。
一流は嘘を使わない、、、嘘である、一流はまず自分に嘘をつく。
「要らない」商品を、「要るかも」と思わせるには、心底からの言葉が無いと難しい。
だからこそ、自分自身の「まあ確かに要らないっちゃあそうだよな」って思考を潰し切れるかどうかが、重要なのだろうと思っている。
まあそうして身の回りが商品に満たされた先に、「所有物の占有領域と、心の余裕とは反比例する」なんて言って捨てさせて、振り出しに戻すのが常套手段なんだが。
「物事は円」――――「回転したならば」―――――
そういうことなんだろうなあ。

で、人が感動して「欲しい」って思う商品は誰の商品かというと、ソイツらではない。
ほぼ間違いなく、嘘をつけない一流の職人の一品だろう。
僕もそんな人になりたいと思うこともある。
しかし非才で浅学、卑怯な自分がそれを赦さず、今日も嘘をついて生きている。


おわり。

2019年6月16日日曜日

得と徳とを篤と説くと 20190615

土曜日の練習。
雰囲気が変わっていた。
ピリピリとした空間。
手抜きしていた部分も、劇的に減っていた。
乱取で実力を窺うでなく、その前後で分かる。
準備運動から最後の柔軟まで、意味づけする分だけ成長機会は増える。
もっと言うと日常生活から、自分を整えているかどうかでも全く変わる。
成長したくて行動した人が、ちゃんと成長している。
こんなに嬉しいことは無いと思う。
後は、その度合いがどれだけ目標地点に届き得るかどうか。


去年の七帝では最下位。
秋の東北戦はズタボロ。
3月の寝業錬成でも負けばかり。
面子も15人は揃うものの、余裕は全くない。
状況は依然、最下位候補筆頭。
それでも勝ちたいって思うから、雰囲気が変わったのだろう。


僕らは、出来て当たり前のことが出来ない。
当然、普通、と評されるいろんな物事が、本当にそうであったことはほとんどない。
朝起きる、最低限3食摂る、時間に遅れない、周囲に感謝する、身の回りの整理整頓をする、エトセトラエトセトラ、、、。
求める何かを、それを得て当然の人間に、僕らは成っているのだろうか。
まずは自身を、それだけでなく、お互いにも。

自らの利だけを考えるような輩は害悪だ。
競技者として半端に強い連中に、こういう輩が多いように思う。
しかし他者の益だけに終始すれば、いつかは自分が摩耗してしまう。
自らの利を他者の益にもできれば、それが一番良いような気がする。


こんなことのたまう前に、まずはお前の徳はどうなんだって?
ちゃんと積めていたら、こんな記事書く羽目になってないってことで、ご理解いただきたい。


おわり。

2019年6月11日火曜日

道着、見つかる 20190611

紛失してた道着が見つかった。
4月ごろに買ったばかりの新品。
無記名・刺繍のものだったので、「テメーの管理が悪いんじゃい」と言われればそうなのだが、結構ショックだった。
いやまあ、スラム街に小金持ちで世間知らずの坊ちゃんを置き去りにするようなものだと思えば、やはり悪いのは僕である。


今週から朝練が始まったらしい。
内容はランとダッシュ。
僕が2年目の時に始まったと記憶しているが、やるときは毎回憂鬱だった。
朝イチというのもあるが、ランはまだいい、問題はダッシュ。
僕は短距離にものすごい苦手意識があったので、本当に嫌だった。

とは言っても、目的としては脚力の強化ではなく、心肺機能の底上げがメインなので、その辺は普通のダッシュとは違うのかな。
そう言えば、その後にテーマ別で二重絡みやってたこともあったなあ。

そんなこともあってか、僕が参加した夕方の練習では、みんな多少動きが悪かった。
朝練に慣れるまでは暫くこうなるとは思うので、早く慣れろ、身体を整えろ、としか言いようがない。
ただ、取役連中が疲れていると、相対的に分け易くはなる。
相手がどんな状態であろうと、取役は取れなければ負けだし、分役は取られなければ勝ちである。
こういう時に、自分なりの分け方を蓄えておくと良いと思う。
達成感とか、自信にも繋がるもんだし。


今日の感想、我々はペッシあるいはマジェントマジェントである。
口先だけで行動に移せず終わったり、相手への敬意を忘れて準備を怠りその結果考えるのを止めたりということは、往々にしてある。
自己満足感は重要だけど、それだけで終わるのは勿体無い。
結果が求められるのなら、自分が結果を得たいと思うなら尚更。


何かが悪いわけではない、良くは無い、ってだけ。
成長はしてるし、前には進んでいる。
目標に届くかは怪しいってだけ。
残り時間は少ないから、やることは絞って、選んだことにひたすら注力するしかない。
幸いなことに、七帝では一芸だけでも持っていればそこそこ戦える。
個々の闘い方とか、狡いブラフとか盤外戦術は、聞いてくれれば僕も考える。

ただ、僕が代わりに畳の上に立つことだけは出来ない。
代わってあげられないし、そうするべきではない、現役部員だけの特権。
七帝を観に来るOBOGは、そういう特権階級の人たちに憧れる面々が殆どだと、僕は思ってる。
つまりそこでしか観られないライブ感とグルーブ感とかを求めてくる、一種ファンキーな人達だと思えばいいと思う。
社会とか会社でそれなりの地位にいる人もその中に混じってると考えると、僕個人としては結構面白く思っている。


おわり。

2019年6月6日木曜日

僕はMではない 20190604

現役時代からよく言われていた。
「森本はMだよな」、イニシャルではなく、SかMか、という意味で。
この日は3つ上の河野さんがいらしていて、テーマ別、亀取の時にそんなようなことを言われて思い出した。

M、とは、肉体的・精神的苦痛が性的快感に変換される性質だと、個人的には理解している。
僕の見た範囲では、四天王と呼ばれた連中が、その才を持っていそうな気がする。
その下だと、男子校部員の面々に潜んでそう。
「大学に入りさえすれば、、、」って希望が「大学入学したって、、、」の絶望になるときに、抱えていた不満が性的倒錯にスイッチするのかもしれない。
そしてアウトローへ。

またMは、一般的には「受身な人」という軽い感じの理解で受け止められていると思う。
この「受身な人」を考えると、「分け役」がそれに当たりそうだけど、本当は違うと思う。
「分けは何も受けるだけではない」という議論はここでは無しにしておく。
さて、七帝において「分け」は「勝利」に繋げるための最重要課題である。
「勝利」は、よほど精神的に屈折している人でなければ、「喜び」に繋がる出来事だろう。

つまり、同じ受身な人でも、Mの人と分け役では回路が異なるはずである。
Mは、受身→苦痛→悦び
分け役は、受身→苦痛→引分→チームの勝利→喜び
になるはず。

僕は分け役スタートだったので、受身→よろこび回路は当然後者、前者のような回路は持っていないから、やっぱり僕はMではない、という結論になる。


今回は現役の描写が全然なかった、反省。
まあ、前に進んでる感はあると思う。
あとは「やりたいことをやる」でなくて「できそうなことしかやらない」ってのが、本番間近の必須事項。
最近は札幌の気候も、急に暑くなったり、かと思えば雨で冷え込んだりと忙しいから、振り回されて体調崩さないってのも重要。
最近の学生は学業もきちんとしないといけないし、学費稼ぐのにバイトもしないといけないし、手を抜いても良い部分が少なくなっててツラそう。


おわり。

2019年6月4日火曜日

陣取り 20190603

今日は正対上からの攻撃について。
足を捌くにしても、かみつくにしても、「如何に相手を制圧するか」「その中でどれだけ急所をつけるか」が肝になると思う。
1点目については単純で、足元より上半身、一点より一面をということで、抑え込み目指して陣地を広げて侵略していくイメージ。
気分はモンゴル帝国チンギスハーン。
2点目は、侵略してく中で「どこを優先的に狙うか」ということ。
基本的には膝、鼠蹊部、脇、首元、首裏なんかが対象になる。
あとは、制するために使う部位、を考えると良いかと思う。
手足だけに集中しがちだけど、実のところは肩だったり胴体で制する展開も多いし、それができると手足が尚更活きてくる。

しかし今日の道場には蚊が多かった。
もうそんな季節である。
乱取見てたら、近藤の腰にかが止まっているのを見て滅茶苦茶叩きたくなった。
僕自身も何か所か咬まれていた、かゆい。
ただ札幌の良いところは、風があることと、夜はちゃんと気温が下がってくれること、湿気がないこと、なので夏でも過ごしやすい。
けど水遊びしにくいのは欠点、ふつーに寒くなる。


今年の学祭には柔道部も出店するらしい、今週末の予定。
ソースは部室にあった立て看板。
七帝が7月になったことで、久方ぶり多分10数年ぶりの出店。
一応、焼きそばではないらしい。
その味は推して知るべし。
柔道部の100年を超える中で受け継がれてきた秘伝の数々が、浸み込んでいるはずであるきっと。
教養棟の付近で、如何にも商売が苦手そうなパッとしない店を見かけたら、まず柔道部の店だと思って間違いないだろう。
学外の方はもとより、他の出店者の方々にもぜひ来てほしい。
「こんなレベルで店出せんのかー、なら俺らも頑張れるに違いない」って、勇気を与えてくれることと思う。
尚上記の文章は、あくまで僕個人の勝手なイメージによって構成されていることは、念のため記しておく。


練習後、部室では澤田が下半身パンイチでソファに凭れかかっていた。
力尽きて、上半身の服を着るのが限界だったのだろう。
曰く、「寮では(自主規制)で過ごすこともある」とのこと。
やはり寮生と言っても、個室は自由なのだなぁ、と思った。
思っていたら、「複数部屋です」、うーん、やはり寮生の生育環境は興味深い。


おわり。

2019年6月2日日曜日

気分 20190601

何だ今日はやけにJPOP聞こえてくる、上下左右のどっかに新しい人でも来たのか、と思ったら近所の小学校の運動会だった。
札幌はこの時期がシーズンらしい。
そう言えばスーパーのチラシにも「運動会のお弁当に」って売り文句があった。
ただネットに拠れば、昨今のカリキュラム変更とか英語教育の兼ね合いで、運動会は時間短縮、午前だけ、弁当タイム無しの憂き目にあっているとのこと。
そういや最近の運動会って、順位はちゃんとつけてるのだろうか。
モンペ(死語?)、つまりは馬鹿親の台頭で、「みんなが1等賞」とか阿呆なことやってないか心配である。
順位はつけろ、挫折もさせろ、そういうのは早い方が良い。


さてさて、話を本筋に戻そう。
北大構内は緑が生い茂っていた。
茂り過ぎて所々に草刈のオッチャン達の姿も、いつも有り難いことである。
道場上の大窓からはポプラの綿毛がふわふわと。
柔道やってるうちに吸い込んでしまうんじゃないかと思ったけれど、体操やって基礎運動やってるうちにそんなことどうでもよくなった。

基立、乱取、基立。
基立ち中には、押し出しも何組か。
途中、そのどちらでもない1年目坂田が当たりに来てくれた。
向上心があっていいことだし、僕を使ってくれるのは有り難いことだったけど、断った。
好き勝手に人が入り過ぎると、基立ちをやる意味がなくなるからである。
立っている人を周りが全力で追い込む、ってのが基立なわけで、つまり周りの人はある程度温存するべきなのである。
そうなると周りの人は、練習強度が相対的にマイナスになってしまう。
それでもいいのか、周りの人は強くならなくてもいいのか、と言われれば、それも間違いではない。
ただし正解でもない。
自分が強くなることは重要だし必須案件なのだけど、僕らはチームとして強くならないといけないので、その軸というか境界線を越えてはいけないと思う。
自分とチームを秤にかけて、都度何が優先されるべきか考えること。
ただ勿論、自分とチームはお互い独立なわけではないので、常に影響し合っている。
優勝した代の人たちは、多分チームの構成員殆どがプレイングマネジャー的な動きをしていたんだと思う。

そういえば、この日は珍しい先輩方も見えた。
5年以上ぶりくらいの東郷さん、北大出身ではないけど、僕が現役の頃に何度か胸を貸していただいた記憶がある。
また練習の途中でいつの間にか小坂さんがいらしており、現役に色々と教えていただいて、練習後も残ってやってたみたい。
ただ僕自身は練習後は生憎、買い物その他の用事があって早々に帰宅した。


おわり。