2020年8月29日土曜日

在り様

他人の言葉を借りるのはあまり好みではないけれど。

「その罪を犯した人間が、自分の心の径路をありのままに現わすことが出来たならば、そうしてそのままを人にインプレッスする事が出来たならば、ての罪悪というものはないと思う。総て成立しないと思う。」

8/27の日経春秋に挙げられていた夏目漱石の講演「模倣と独立」の一部。

気になり検索してみると、すぐにヒットしたので全文を読んでみた。

あの時代らしい語り口でやや読みにくかったものの、今に通じる部分も多い。

抜粋された文章は講演の終盤部分にあたり、イミテーションではなく、オリヂナル、インデペンデントを目指すべきだ、と締められている。

そんなことを言われると、ここで文章を又借りしている僕は落第者ということになるだろうが、まあ、いい。


一般の柔道で引き分けを狙う場合、余程巧みになされなければ、「消極的」と判断され反則を取られる。

これは極端な解釈をすれば、「明らかな引き分け狙い」≒「罪悪」としているということだと思う。

しかし七帝柔道においては、「明らかな引き分け狙い」≒「罪悪」ではなく、むしろ推奨され得る行為である。

これは、「引き分けを狙うに至った心の経路」を評価し、選手になるべく寄り添いたいという心が、試合規程に反映されているのだと思っている。

選手に表現させるのではなく、審判が頑張って察しろ、ということで、やり辛い感はまあ、否めないけれど。

しかし見ていると、心の経路が見える選手の方が強い。

そう表現しているわけではなく、ありのままに自然と、一挙手一投足が意味を成している。

多分その状態を、オリヂナルやインデペンデントと言うのだろう。



おわり。

2020年8月25日火曜日

「仲が良い」という課題

  以前の記事 課題 にて、3つ挙げていた内のひとつについて。

「仲が良い」とは一見喜ばしいことであるが、では何が問題なのか、それについて私見を述べる。

ちなみに、似たような問題は僕の代でも起こっていたし、どの代も大小の差はあれ抱えていた課題のひとつかとは思う。


1.仲が良い=何でも言い合える

まずはこの意味を履き違えている場合がある。

何でも=下らない話でも、というパターン。

ストレス解消には多少の効果があるのだろうが、チームとしての建設的な、しかし苦痛を伴うような話には適応されないということ。


下らない話、に近いものを感じるものが最近ある。

しかし、その半分以上が意味不明なハンドルネームの、意味不明なコメントである。

ここ1,2年だろうか、北大柔道部ログの記事に増加してきたこれらを、以後ガヤとでも言おう。

率直に言って気持ち悪い。

「私はふざけた名前の人間なのだから、面白可笑しい表現をしていいだろう」なんて都合の良い甘えが出てきそうで、読むたびに不快感が生じる。

高2の冬、実家の椅子で寛いでいた折に何かが飛んできて、視線を落とせばゴキブリが胸元にいた時の、あの気持ちに近い。

無論、「そんなガヤもあってこそ」という方もいるかもしれないが、僕としてはチームに必要なのは責任ある当事者であり、ガヤは要らない。



2.仲が良い=良くない人とは関わらない

これは分かり易いだろう。

チームが複数の小集団に分割され、しかもそれらの流動性が著しく低いパターンである。

ある情報について、話し易い人と共有するのではなく、必要とする人に伝える、この基本作業に対しての精神的障害が大きく、つい億劫になってしまう。

こうなると情報伝達、意志疎通が滞り、いつまで経っても一体感は生じ得ない。

コロナ禍の今は、特にこのあたりが心配である。



3.仲が良い=内面まで分かる

分からなくてもよろしい。

まず必要なのは事実の積み重ねである。

例えば、練習に身が入らないAがいたとして、それに対するBの思考。

①「そういえば最近思い悩んでいるらしいな」

②「あいつの学業は○○で、部外の交友関係は□□で、生い立ちは△△」

③「なら××について助けてあげればいいかも!」 → 行動へ。

この場合、行動として表に出るのは「なあA、××について悩んでるんだったら、力になるよ」ってな具合だろうか。

多分この似非思い遣りが間違いで、本当は初手に「おいAちゃんと練習やれ」となるべきかと思う。

何故なら「練習をしないこと」、これがAとBが属するチームから見た、Aの問題点であるから。

勿論、チームの話から進んA個人の事情に踏み込むのは、運命共同体感を醸すのには効果があるだろう。

しかし目標地点の設定を間違えると、チームにおける問題点を追求できず、ただ「いやーAのために良いことしたなー」というBの自己満足で終わってしまうかもしれない。

A本人にしても、「練習をしないこと」に焦点が当たらないことで、「真剣にやらなくても、何かしら理由があれば許される」という勘違いを招きかねない。



以上、「仲が良い」ことの弊害について、思いついたことを連ねてみた。

全部ひっくるめて表現するなら、「仲間はお友達とは違いますよ」、以上。

課題はもう2つ挙げていたので、それらについてもそのうち記事にしよう、、、。



おわり。

始まったらしい

 北大柔道部ログにもある通り、当面は筋トレメインでやるとのこと。

道場使用可能人数は現在15人までなのでコーチの僕も参加不可。

つまり実際に見てはいないが、どういう筋トレをやっているのだろうか。

まずは再開に漕ぎ付けたということで、満足すべきか。

僕は欲張りなのでもっと言うと、道場でしかできないような、もしくは複数人集まることで相乗効果が出せるような内容ならばいいのだけれど。


個人的には、「這う」や「エビ」なんかの基礎運動を延々とやるのが良いんじゃないかと思う。

あと「受け身」も。

肘や腰、背中が擦り切れるくらいやれば、久しく忘れていたであろう痛みを、ちゃんと思い出せるのではなかろうか。

痛みや苦しみは、艱難を迎えるためにある。

喜怒哀楽の一切合切をひっくるめて、全てを受け容れられるのであれば悟りを得たということなのだろうが、生憎彼らは(もちろん僕も)しっかりとした俗人である。

だからこそ、凌げるよう、乗り越えられるよう、打ち克てるよう、今の内に苦しんでおくべきだろう。

人生の大部分は苦痛であってもいいだろう、その方が、小さなよろこびを大切にできるのではないだろうか。


マイナスから入ってそのうちプラスへと裏返るタイプの僕としては、そんなことを思う。

まあ、苦しさが過ぎるのなら、耐えられないのなら、いざとなったら逃げればいい。

北大柔道部から逃げたとて、世の中の99%以上の人間は気にも留めない。

もっとやるべきことなんて、幾らでも見つけられるはずで。

そもそも逃げるなんて表現も正しくなくて、ただ選んだだけのこと。

では選ぶ自由を行使した我々の、その後の義務って何なのだろうなあ、と最近はまた考え直し中。



おわり。

2020年8月18日火曜日

練習再開か?

大学側から、課外活動の許可が出るようだ。

依然として制限はあるものの、社会に遅れること数週間(或いはヶ月?)、ようやく道場が開く兆しが見えた。


・十分な感染対策をすること

・団体の代表が管理すべき項目が明確化されていること

・感染者が出た場合の対処が明文化されていること

などを前提に、道場なら片面あたり15人まで活動できるようだ。


先週には、新幹部から指導陣へ、提出書類の案が出された。

慣れない作業でむずかしかったろう、見せてもらい、多少の助言をつけたのだが、はて現在はどうなったのか。

無事に活動再開、となっていればいいのだけれど。

もしかするとまだまだ「案」の字から抜け出せていないのかもしれない。



さて、活動再開にあたって僕なりの懸念を2つ。

1つ目、換気問題。

夏の今は全く問題無いが、もう1,2ヶ月もすればかなり冷えてくる、というのが北海道である。

『屋内での活動は、できる限り常時窓・扉を開放する又は2方向の窓を1回数分間程度全開にする。 最低30分おきに、屋内の空気がすべて入れ替わるように換気すること。』

と大学側は言うものの、秋を越して冬場になれば、ウチの暖房性能にはかなりの不安がある。

下手すれば室内気温が常時マイナスになりかねない。

部でジェットヒーターを2,3台購入、という説も現実のものになるかもしれない。


2つ目、消毒用備品について。

結構な量になるのではないだろうか、まずは購入費用の問題があるだろう。

部の会計状況はここ数年安定しているのだけど、それでも金が湧いて出てくる田とか、はいて捨てるほどあるとかいうわけではない。

使用量と頻度の掛け算で、一体どのくらいの額になるのだろうか。

もうひとつは、管理の問題が出てくるだろう。

北大柔道部の部室では、毎度いろんなものが無くなっては掘り出される。

練習後に靴下が片方無いだとか、財布・スマホ・鍵が無いだとかは、週イチの出来事だった。

そんなところで薬品に類しそうなものが管理できるだろうか。

一昨年に不動産店舗で爆発事故が起きたが、その二の舞にならないか甚だ不安である。



まだまだ色んな想定ができるだろう。

準備だったり対処だったり、やるべきことやれることは多い。

焦るのも仕方ないが、それぞれ一つずつやるしかないだろう。

幸いにして我々は組織であり、しかし不幸にして未だ一丸ではないものの、支えあい助け合うことは十分にできるはずである。


そんなところで、まずすべきは何か、まあ妥当なところでは、現状把握だろうか。



おわり。