2020年3月9日月曜日

師の話、禁止されてもやる奴はやってる

僕は小3の夏に柔道を始めたのだが、その時の先生の話でもしよう。
その先生には今でも帰省の際挨拶に赴いており、毎回1時間ほど話をさせていただいている。


以下は覚えていることを箇条書き、正確な日付はほぼ分からない。
一応名前はいくつか伏せておく。

・少年時代はGHQに隠れて柔道していたらしい
・お蔭で学校柔道復活後、高校生時代は負けなし(自称なので真偽は不明)
・大学受験を考えていたが製鐵メーカーF社にスカウトされる
・F社の柔道部に所属していたところをM大学の柔道部に発見され、スカウトされる
・M大学に入学、柔道部主将時には第6回全日本学生柔道優勝大会(1957年)で優勝(ここだけは裏付けあり)
・化学メーカーK社に入社
・帰郷(時期不明)
・(定年後?)近くの警察署の道場で小中学生に柔道を教えるようになる(師範?)
・2001年夏、僕が柔道を始める
・2010前後(?),師範(?)引退、現在に至る

ここから先生の歴史を推測してみると、若い時期の年表は以下のようになる。

1932~1934年(0歳) 誕生

1945年 太平洋戦争終結、学校柔道禁止

1950年 学校柔道復活

1950~1952年(18歳) Y高校卒業

1951~1953年(19歳) F社入社、関西勤務

1954年(20~歳) M大学入学

1957年(24~歳) 第6回全日本学生柔道優勝大会 優勝

1958年(25~歳) K社入社、北陸勤務

色々と話はあるのだけど、今回は一番最初の事項について。
「少年時代はGHQに隠れて柔道していたらしい」について考える。
というのも、最近のコロナウイルス対応での自粛云々と、状況が重なる気がするからである。
已むに已まれぬ事情で活動を禁止されている、という点において。
以後、禁止されているにも関わらず柔道活動を行うことを「ヤミ柔道」とでも呼称する。
勿論、僕はヤミ柔道を推奨するわけではない。
ないが、そうせざるを得ないと考える人種もいることは理解しているつもりだし、諸々考えてそれでもやるのだ、という気概のある人を好ましいとも思う。

さて、では本題。
何故ヤミ柔道に手を出すのか、その理由について察していきたい。

1. チャンスだから。
これは考え易い。
「ライバルが練習できないうちに自分だけやって差をつけよう」ということ。
対人競技である以上、絶対的な強さよりも相対的な強さの方が重要なのは、言うまでもない。
幾らOBOGが「自分たちの頃はレベルが高かった(または低かった)」と言っても、現役に重要なのは「この(今年、または自分たちの)代で勝てるかどうか」である。


2. 精神・肉体安定上不可欠であるから。
習慣化していることを急に止めるのには多大なストレスが伴う。
そのストレスが、「体を動かさなくとも良い」という、一見して楽ができるものであったとしても、数日しないうちに不調に陥るだろう。
僕個人の経験則では、1週間から10日ほど息切れしない日が続くと、心身のパフォーマンスが4割減くらいになる。


3. 失うものが無い、または少ないから。
学生らしい理由である。
余程のことがない限り、周囲にウイルスを拡散させてもお咎めは無いだろう。
それが原因で収入が長期に渡って減少したり、社会的信用を失ったり、周囲から白い目で見られたりということもないように思われる。
社会的責任が薄いからこそ、社会に唾することを厭わない。


おそらくここまでが、僕の師が考えたことであろう。
そして以下に1つだけ別のことを加える。


4. 社会性を求めて。
ここで言う社会性とは、一般に開かれたものではない。
いわば部内における繋がりのこと。
北大柔道部には人付き合いに欠陥を抱えた人種が一定数居る。
しかし困ったことに、これらの人種の多くが人付き合い自体は好んでいる。
するとどうなるか、現役の部ログに見えるように、なんだか粘着質な、変態性を持ったヌメヌメとしたコミュニケーションが幅を利かせることになる。
彼らの多くはそんな湿潤環境、胎内のような何かに満たされた空間でしか生きられず、引退後社会復帰に時間を要する羽目になる。


以上、ヤミ柔道の理由について考えてみた。
今回僕の師をダシにして考えてみたのだが、そのうち別の話でも出てきていただくかもしれない。
まだ「1年奴隷、4年神様」が常識で、密造酒は表で売られ、高名な柔道家は利権を握っており、人は簡単に行方不明になれた時代の話である。
佐々木コーチの語る歴史とは別ベクトルの面白さで、僕はこっちも結構好き。
なんにせよ、その時を生きているヒトの、当時のイマは大切にしたい。
そうあればこそ、今だけを見つめて動くことも、少しはできる気がする。


おわり。

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