2019年9月7日土曜日

映し鏡 20190905 20190906

昨日は練習試合の観戦。
今日はテーマ別の背負い潰しを2分裏表2,3本。
乱取6分×4本くらい、抑え込み30秒裏表×4本くらい参加した。

勘の良い選手は気付いてたと思う、それぞれの次の段階に進んでいる。
或いは、そういう風に自分を変えたのかもしれない。
何に、かは内緒、それは道場にいる人だけが知っていればいい。
僕の見立てでは、割と元からなのが各学年に1人ずつ。
変わりつつあるのが全体で2人くらい。
推せば多少はどうにかなるのが大多数。
現段階ではかなり厳しめなのがちょっぴり。

さて苦言、体調不良と怪我で、全部の練習ができるのは10人を切っていた。
無理はしないほうが良い、ってのはつまるところ程度問題だと思う。
真に理性的な人なら、そもそも戦いの場になんて出てこないだろうから。
それを敢えて出てくる者、しかも、確実に勝てるかどうかわからんものに手を出すと決めた時点で、無理は必然的に生じる。
無理の必要量は自分で選ぶしかない。
他人に強制されたところで、どうせ身につかないか、或いは耐えきれなくなるだけ。
僕の判断基準は2つだった。
・今の状態でも、試合に出るかどうか
・無理をした場合のデメリットの方が、明らかに大き過ぎるかどうか
ダメだったら道着は脱ぐようにしていた、と思う。
自分の中に線引きをするように。
乱取に入ってる人たちが、「コイツはやっていい奴だっけ?」って余計な思考をしなくていいように。
繰り返すが無理をしろ、ということではない。
ただ、上を目指すならいつかどこかでいくらかは必要になる、それが現実である、ということ。
あとは、まあそもそも体調整えるなり怪我しにくい体にするなりは当然。
しかし、「当然」って言われていることって、大体の場合当たり前のように出来てないことばかりな気がする。
メディアのコメンテーターが発信する情報とか、どこかのプロ市民が主張することとか、親や先生・目上の人がする注意とか。


あと、忘れてたことを思い出した。
他人の不快なところは、 おおよそ自分の嫌いな部分とリンクしている。
周りをダメだというときは、僕自身が乏しくなっているときだ。
事実、気を漲らせようとすると非常に疲れた。
相手を圧倒する雰囲気が、どうしても散じてしまう。
再生産するのに余計に消耗する。
ベストは、身体に巡らせた状態。
発散させずに、肚に据えて充実させる。
そういう時は、むしろ穏やかになる気がする、静かにやるべきことをやる。
気を抜くわけではなく、自分でも気づかないうちに自然と動いているような状態。

道場に向かう途中、雨が降っていた。
「お前(雨粒)が俺を避けて落ちていけ」なんて思って歩いた。
すれ違う人を「コイツは何秒で制圧できるか」って考えて歩いた。
そうやって気を張って歩くだけでも息が詰まった。
呼吸は浅く、身体のあちこちが強張っていた。
甚だ未熟、でも最初はこんなもん。
変わるべきは僕だ。
作り直し、なら、まずはここから。
机上の必要最小限の努力なんて余裕で越えて初めて、変化の駆動力が機能する。
理を得たいなら、なるだけ理不尽を選ぶしかない。


おわり。

2 件のコメント:

  1. とあるOBのDYです。
    「周りをダメだというときは、僕自身が乏しくなっているときだ。」とありますが、僕も昔O君という後輩に「ち○こ出さないような主将に部員はついてこない」とダメ出ししてしまいました。
    僕はどんな乏しさを抱えていたのでしょうか?

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    1. 娑婆で言うところの倫理観と理性だと思います。

      ただ、七帝柔道の世界においてそれら社会性がどの程度役に立つのか、機能するのか、求められているのか、についてはずっと手探りのままです。

      まあ娑婆の倫理観においても、「不倫」が「オトナの恋愛」、「援助交際」が「パパ活」と言っておおよそ受け容れられているくらいなので、「人間やっぱりなんとなく都合が良いか、結果が得られるかしとけば、それでいいんだろうなあ」とも思っていますが。

      遅ればせながら、コメントありがとうございました。ちなみに東北大との定期戦は11月の頭になりそうとのことです(確定情報ではありませんが)。

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