2018年8月6日月曜日

限界を超えろとよく言うけれど 20180806

鬱々とした晴れ模様も鳴りを潜め、札幌らしい爽やかな夏模様のこの頃。
程よい太陽熱と、涼やかな風を感じる所謂ハイシーズン。
草木生い茂り、春に芽生えた淡い想いも一息に燃え上がる、そんな巷のっぽい夏は今年も消息不明で。
僕は今日も今日とて道場へ。


今日は練習後の現役の筋トレに混ぜてもらい、数ヶ月ぶりのベンチプレス。
毎度、100kgあげることを目標にしていて、まともに挙上出来なくなったら衰え甚だしいということだ、と自分に言い聞かせている。
幸い、2回目もぎりぎり行けたので、なんとか踏みとどまっているということだろうか。

そして、いくらかの人は予想通りかもしれないが、僕と組んだ方々は不幸にも追い込まれる羽目に。
いつもの重量から少しだけ重くしてみたり。
潰れて自力で上げられないところから、もう何回か支援付きでやらせてみたり。

そうすると、大抵「限界です」「無理です」と言うのだけれど、はてさて、限界とは何ぞや。
僕らが何か行動することに対して「限界」と言うとき、それが本当に「出来ない」ことを表すのは極々稀だ。
殆どの場合、「限界」とは「普段の範疇から大きく逸脱していること」を表していて、実行可能性についてはあまり考えられていない。

僕ら生き物は狡賢いから、肉体的精神的に大きなストレスを掛けることは、極力避ける性質がある。
常にどこかに余裕を残しておきたいということだ、と僕は思っている。
だから、自分で自分を追い込むことはものすごく難しい。
体育会系の文化であれば称賛に値されることかもしれない。
でも社会人でそれをやって、しかも負の方向に自分を追い込めば、鬱と名付けられて一人前の病人になる。
だから、きっとそのあたりは紙一重なんだろう。

まあでも、尋常の努力で全てが上手くいくならそれが一番良いはず。
だから選んだほうが良い。
期限内に望む場所にたどり着くのに、何かしら無理をすべきかどうか。
僕は緻密に考えるのが苦手で、刻々と変わる状況に対応していくのにも不安があったから、100不足しているなら120を注ぐつもりでやることにしていた。
今となっては、その余分な20を他人に分け与えたほうが良かったんじゃないか、とも思うけど、時既に遅し。

とまあ、あれこれ言ってはみたけれど、今回言いたいことは1つだけ。
自分で思った肉体的限界って、割かしすぐに超えられるよ、ってこと。
加えて、他人の(信頼できる人だと尚更)力添えがあれば、自縄自縛のリミッターなんて、使い古しの解けかけの紐くらいのものでしかない。

そういうことが腑に落ちる瞬間を、僕も誰かに与えられたらいいなあ、なんて思ってる。


おわり。

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