2018年11月30日金曜日

対症療法 20181129

知識は道標である、と思っている。
何かしらの目標、例えば七帝柔道で分け切る、といった際に取り得る行動の効率化に役立つ。
具体的行動として、立技・寝技、更に細かくすると組手争い・足捌き体捌き・正対上下・亀とか、まあ色々ある。
更に細かく、更に更にとなっていくと、つまりは無数の選択肢から「この状態に持ち込めば割と安泰」ってのを判別するための基準になるのが知識だと、そう思っている。

練習後に、1年目の近藤と町田と、引込とそこに至る過程について議論していたが、明確に答えは出ないもので。
ヒントは多くあって、彼らよりも知識と経験を持っている僕が担うべき役割として、それらを提供することはある種当然のことかと思う。
でも、ゴール地点を定めるのも、そこに向かうのも彼ら自身だ。
ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん。
あ、そういえばまだ映画観てないや、1はTVの焼き増しとか繰り返しが多かったような気がして、「俺はいったい何を観たんだろう」って気分になったから、2もちょっと怖いんだが。


目標達成には知識が必要だけど、それをどれだけ提供するのかも結構難しい。
ねだるだけでもらったものは、人間それを大事にしないってのはままあることだ。
翻って僕自身の職場でも、それと似たような問題はあるけれど。
まあ仕事に仕事以上の価値を見出せていない僕が言うのも何なのか。
あんまり言うと社内情報の漏洩にもなりかねんから、この辺で止めておこう。


先日小菅先輩から、「今の企業は社員も管理職も経営者もみんなサラリーマンだからなあ」という風な内容の話を聞かせていただいたけれど、うーんまさにその通り。
北大柔道部も、現役はそんな感じなのだろうか。
僕が現役の時は、、、どうだったっけ?もしかするとあんまり変わらないのかもしれない。
まあでも、「目標達成に○○やったら良さそう/□□しなければ効率化できそう」ってのはどんどんやってって良いんじゃないかな。
「目標ってなんでしたっけ」「目的も特にないんだけど」ってなると、それはまた別の話し合いをしないといけなくなるわけだが。
一時期よりかは、多少は進んでいる気はするから、きっと悪くはない、とは思う。
だからって、手放しで「イイネ!」ってのは僕は言えない性質だけど、でも手伝いなら出来る範囲でするつもり。


おわり。

0 件のコメント:

コメントを投稿