2018年5月24日木曜日

テレビのない生活

タイトルの通り、僕の部屋にはテレビは無い。
無いなら無いで案外生活はできるもんで、デメリットは人と話をするのに話題が合わなくてちょっと困る程度。
まあ、ネット環境は繋がっているので、そこまで情報に飢えているわけでもないし。

卒業の時に後輩に譲って以来、noテレビ生活を送っていて、慣れたと言えば慣れた。
メリットは、テレビからの情報を遮断することで自由な時間を作れること。
ポジティブな人たちか、少々過激なニュース化、(僕にとって出ないことは確かだろうが)上手いこと切り取られた事実から遠ざかることで、より自分自身を見つめられるようになったこと。
要するに、自分の殻に閉じこもって云々唸って過ごせるようになった訳だ。


偏向報道、なんて言葉があるけれど、現状メディアはまあその通りだと思う。
というか、ちょっと考えてみれば、生の情報全てをそっくりそのまま伝えることなんて、誰にもできやしないはず。
だから、意識的にかどうかは知らんが、時間や資金の面からどこかしらの編集はしないといけなくて、しかも商売である以上何かしらのスパイスを効かせるのがフツーなのだろう。
ただ、作為的に変な方に誘導したり、誤ったけど謝らなかったり、勝手に「一般」とか「常識」を名乗っていたりするとしたら、それは問題だと思う。
結局、テレビは見ないから今その辺がどうなっているのかは知らんし、あえて首を突っ込む気も無いけど。


何事も、嫌なら逃げて、目を合わせないのが一番だと思う。
最近はそう思うようになってきた。
こう言うと、柔道なんていう誰かと闘う競技に身を投じている現状や僕のこれまでを台無しにしてしまうのかもしれない。
けれど、何か大事なものがあるのなら、生命や生活、多額のお金とか、その他何でもいいけど、譲れないものだけきっちり守れるのなら、あとは消えてオサラバしても問題ない気がする。
僕はその「譲れないもの」のそれなりの上位に北大柔道部があるだけで、その信条まで他の誰かに強要できるものではないと思っている。
ただ、同じような、似たような人がいれば嬉しいけど。

だから、逃げて、捨てて、目を背けてもいい。
それでも残ったものほど、大事なものだったり、身に沁みついて離れられなくなったものだったりするのだろう。
逆に、離れたものの中には後悔するものも出てくるだろうけど、それはそれで一つの発見だと思う。
失敗して同じ位置に戻ったと思ってても、もしかしたら螺旋階段を真上から見ているだけのことなのかもしれない。
ただ、結局僕は登っているのか、それか転げ落ちて行ってるのかは分からんけど。

それでも生きてるし、もうしばらくは生きている。
なんて自己都合を満足させながら、自分なりの美学はなるだけ忘れないように、このブログで思いの断片を継ぎ接ぎしつつ綴っている。
そんな芯というか、根っことか幹になるものがあれば、日大の選手もあんな行動はしなかったのかなぁ。

人間教育で大事なのは、正しいことを勝ち取る方法を教えるのではなくて、正しい負け方を教えるだとか、間違っても起き上れる方法を一緒に模索していくこととかだと思う。


おわり。

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