2018年10月11日木曜日

技研の使い方

指導についての記事を書いて思い出したことがある。
また脳の片隅に引っ込む前に記録に残しておきたい。

内容は、僕の現役時代の技研への接し方について。

1年目の時は、勿論初めての技が多かったから、形を覚えて体を慣らすことでいっぱいいっぱい。
かみつきはじわじわ攻めることができて、お、これは自分好みかもしれない、とか思っていたら、乱取になると返されたり逆を取られたりと散々な目に遭っていた。

2年目以降では、後輩への指導、という項目が追加された。
指導するほどものを知ってないんだけど、、、なんてのはお構いなしに、当時は2,3年目と1年目が人数比で1:1くらいだった(むしろ上級生の方が少なかったかも)から、手が回らなかっただけである。
仕方ないので、知らないなりに「確かこの技はこんな具合の動きだったはず、、、」とかかなりテキトーなことを言っていた。
それでも、人に教えるというのは結構重要なことで、この時に技に対しての自分の理解もかなり進んだ気がする。
お蔭で3年目の時には、後輩への指導はかなりスムースにできていたような気がする(個人的相対的評価)。


話がずれたが、北大では技研というと、多くの場合技のかけ掛け方について学ぶ。
そして技を掛けるには姿勢や動きなど、条件・制限なんてのがある。
例えば、かみつきは正対下の相手に対して、上から、相手の下半身を殺して上体へと登り、足抜きの体勢に持ち込み、主に抑え込みを狙う、という状況設定がある。
これらの核状況において、いくつかの動きのパターンが存在し、取はそれらを状況に応じて使い分けて、さながら陣取りゲームのような形で自分の有為な体勢に持ち込んで、技の工程を進めていく。

そんなこと言われても、言えばできるようになるってもんではない。
だから僕は逆を考えた、各種条件を達成させない分だけ守り切る確率は上がる。
相手の妨害をする、ということが、当時の僕にはとてもしっくりきた。
僕は元来面倒くさがりだから、相手の攻撃の起点をつぶす、なんてのは苦手だった。
なので起点ではなくて、最終防衛ラインを設定してそこだけは死守する、というのが性に合っていた。

そして物事は表裏一体で、防ぎ方を知れば攻め方も何となく分かってくる。
自分がやられて嫌なことをひたすらやるだけである。
色んな宗教家の偉人たちは異口同音に言う、「自分にされて嬉しいことを他人にしなさい」「やられて嫌なことはしてはいけない」。
つまりはその逆をひたすらやる。


そんなことを考えていたら、お前は頭がおかしい、と言われるようになった、いやその前からかもしれん。
でも今就職して思うことの1つは、つまらん。
パンチの効いた人があまりいない、どいつもこいつもどっかで聞いたような普通のセリフを口から溢してばかり。
類は友を呼ぶ、という言葉に頼ればつまり普通なのは僕で、周りみんなが異常だった、ということなのだろう。
普通万歳、僕は庶民的な幸せを享受して足るを知りつつ生きていきたいとも思う。


おわり。

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