2018年7月13日金曜日

結果について思うこと

最初に、この話の原点は七帝だけど、その他何でも当て嵌まることだと思う。
望んだ結果を得られなかったことに対して、僕らは誰かに、または自分自身にどういう言葉を掛けるべきか、ということ。
最初に断わっておくと、僕も答えは持っていない。
それでもそんな状況が発生してばかりの、ハレの日の少ない人生を生きている以上、何とか向き合っていかないといけないとだけは、折に触れて思っている。


結果は否応無く顕れる。
それに対して評価するのも自由。
結果ではなくて、と過程を重視するのも自由。
僕らは大抵、臨んだ結果を得られることの少ない生き物だから、結果の代替案としての過程が重視されるのも分かる。

でも、我々が行動をしていく、過程を刻んでいくその最中に、どれだけ過程について重要視していたんだろうか。
僕は、少なくとも本気でやったことに対しては、ただただ結果が欲しかった。
最低限の、自分なりの美学とか矜持を残せば、それ以外は踏み台にして已む無し、とか思っていたような気もする。
だから僕は人でなし側に分類される人種らしいのだが。


過程に対して、それなりに価値を見いだせる人ならいいかもしれないけど、欲しかったのはいつだって結果だったろう。
それを過程の話にすり替えられたり、副次的な別の成果を提示されるのは、僕個人としては、努力していたその時々に失礼なんじゃないかと思ってしまう。
あの時に「キミにはこんな、今のキミからすると不本意かもしれないけど、多少の慰めはある未来が待っているよ」なんて言われたとして、僕はそいつを全力でぶん殴って、そうならないみちを必死に探す選択をするだろう、とか考えてしまう。


まあ、こう言いつつも、結果について話をすればきっと、大なり小なり過程の話をしてしまう。
それはもう、僕に深い思考能力だったり言語能力だったりが不足しているからある程度しょうがない。
けど、「過程を持ち出した慰めは、結果を目指していた過程そのものを、ある種踏みにじっていること」は忘れないでおきたい。
踏みにじって尚、それでもその人に伝えるべきことがあるとして、なるべくならそれを探したい、とは思う。
結局努力目標で、きっと一生到達できないとも思うのだけれど。

ということで、今回も話はまとまらなかったけど。


おわり。

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