2019年4月11日木曜日

大人とは 20190411

大学生は大人であるか、びみょう。
北大生は大人であるか、うーん、半分くらい?
北大柔道部員は大人であるか、、、うぅーーーーん、、、僕はそうであってほしい。

ヒトは自分に無いものに惹かれる。
新入生なんて気持ちのふわふわした存在には、真逆の人をぶつけるのが良いのかもしれない。
今日も新顔はいなかった。
見学・体験者の合計は、20人には届いていなさそう。
自他を大人として尊重したうえで、ガンガン自分色に塗りつぶす勢いをもっていくといいのかも。


さてここで問題となるのは、大人とはいったい何ぞや。
二十歳超えたら?
体つきが変わったら?
色を知ってしまったら?
働き始めたら?
家を持ったら?
理不尽に反発することなく、順応出来るようになったら?
酒の味が分かって、吐くまで飲まなくて済むようになったら?
「子供の頃に戻りたい」とか言い始めたら?

思うに、こういうことをあれこれ考えているうちは、誰かに答えを望む心持ちでいるうちはまだお子様で。
間違っているかもしれない、世の中を知ったらまた変わるかもしれない、ただし、ただし、自分は今こう思っている、って確固たるものを持ち得た時が、大人記念日なのではないかと思うところである。

そんでもって、確固たるものがあると、世の中を渡るのが面倒になる。
石ころに躓くからだ。
その石ころを他人と言う。
自前の確固たるものを、みんな自分では何かしらの原石だと思っている。
大事に大事に、なるべく傷つかないように、大切に仕舞っている。
なんてことは無い、みんな世界に一つだけの路傍の石ころだ。
それを理解した人だけが、石ころを武器として扱って、生存競争を勝ち抜いている。
所詮石ころだ、使った方がいい。
モノは使ってこそのモノだ、思いは顕してこその思いだ、大人は行動と責任がセットになってこそだ。
自他ともに石ころだときちんと認識したうえで、それでもそこに価値を見出す、それが最良。

行動には目標が必要。
目標には目的が必要。
自分の目的を定めることが出来るのは、自分以外であってはならない。
でなければ、責任を他人になすりつけるどうしようもない人間が出来上がるだけだ。
僕はそういう「お客様は神様」みたいな人間が、北大柔道部員であってほしくない。
「お互いが自律した一個の人間」として、同志を助けたい。
気持ちの上では、現役の時に「自己責任だ」って突き放すだけだった失敗の贖いを、今もずっと続けている。

言葉は無くとも行動で示せばその代わりになる。
表現が下手でも、きっと6割くらいは意図を汲み取ってくれる。
やる気は波があるもんだから、多少ほっといてもそのうち出てくる。
伝える内容が最重要で、「誰が」「いつ」「どんな表現法で」伝えるかは関係ない。
とりあえず、パッと思いついた失敗でもこれくらいはあった。
泣き言ばかり言うのは恥ずかしいから、嫌いな人間になりたくないから、今日も僕は生きている。
あれ?なんか話の趣旨がだいぶ変わったぞ。
スケール感も何かおかしい、まあいつものことか。


おわり。

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